多摩マイライフ包括支援協議会の渥美京子です。
新シリーズ「正会員の紹介」をスタートします。
1回目は多摩マイライフ包括支援協議会の会長で、市民福祉ネットワーク代表の福島真さんにお話しをうかがいました。福島さんは46年以上にわたり、保育の現場で仕事をされてきました。

渥美 ご出身は?
福島 兵庫県芦屋で1948年に生まれました。芦屋の記憶はあまりないですね。その後、伊丹で育ちました。父は鉄工所を経営していました。兄弟は4人で、姉・兄と妹がいます。
渥美 団塊の世代の真っ只中ですね。
福島 そうです。20歳のとき、東京へ。牧師養成の学校に通いました。
渥美 なぜ、牧師を目指されたのですか?
福島 家庭環境ですね。祖父母が熱心なクリスチャン。幼いときから日曜学校に通っていました。兄弟4人とも洗礼を受けました。当時は雨後の筍のごとく教会ができた時代です。
渥美 時代の変わり目ですね。
福島 はい。戦後、民主主義が広がっていくなかで、米国の文化にふれました。グループサウンズ、反戦運動、岡林信康、ベ平連。そんな時代です。20歳で神学校に入り、4年間は全寮制でした。町田の野津田公園の近くに学校がありました。農業を体験しながら、聖書の勉強をしていました。学生時代に結婚をして寮をでました。
渥美 早くして結婚されたのですね。
福島 学生結婚です。妻は大阪にある短大を卒業し、池田小学校の教員になりました。その後、結婚を機に大和市内の小学校に転勤し、卒業と同時に子どもが生まれました。1年間、私は「イクメン」をして妻の収入で暮らしていました。その頃、ゆりのき保育園で日曜学校がはじまり、永山教会の創設を手伝うこととなりました。 ある時、ゆりのき保育園の中嶋博理事長(当時)から「福島さん、保育園で働く気はない?」と声をかけられたのです。私は「よそさまのお子さんの世話をして働けるのなら最高だ」と思い、牧師を生活の糧にする道は選ばず、それからずっと保育園で働いてきました。46年になります。
渥美 保育が水にあったのですか?
福島 実は幼い頃から「大きくなったら幼稚園の先生になりたい」と憧れていました。男性が幼稚園の先生をすることは前例のなかった時代です。「園長になればいい」と叔母に言われたのを覚えています。5歳のときの思いが実現しました。幸せな人生です。

渥美 保育園の園長を長いこと勤められてきました。印象に残る話を聞かせてください(2021年3月で園長を退任)
福島 食・遊び・文化を大切にしてきました。そしてどんなときも、子どもの側にたつこと。安心して生活できる空間を創ることに力を入れてきました。子どもの音域にあるわらべ歌を取り入れ、食も大切にしています。添加物の少ないもの、手作りのもの、本物を大切にしてきました。食器は陶器を使います。温かさが手に伝わることの大切さ、食器の重みを手のひらで受け止めながら食べることの大切さ、それが感性を豊かに育みます。感性を豊かにする、そういう環境を用意すれば、子どもたちは伸びていきます。

渥美 障がいのある子どもたちの受け入れにも力を入れていらっしゃいますね。
福島 入園する人を保育園が選ぶのではなく、選ばれる保育園でありたいと思ってきました。
ニーズを実現する園でありたい。そのひとつとして、開園以来、医療的ケアの子どもを積極的に預かっています。たとえば二分脊椎症で導尿カテーテルの必要な子ども(3歳)を預かりました。この子のお母さんがある日、保育園を訪ねてきて、「どこの保育園も受け入れてくれない」と泣きながら訴えたのです。
私は言いました。
「お母さん、泣く場所が間違っているよ。市役所の窓口に行って泣いておいで」
何とかその母と子の力になりたいと思い、その子の主治医に会いにいきました。
主治医にあって、正直、びっくりしました。原爆症で顔にケロイド。で、主治医はこういったんです。「(あの子は)20歳まで生きられるかわからない。保育園で死ぬかもしれない。私が責任を負うから(保育園で)預かってほしい。そうしないと、この母親がダメになる」と。私はその場で「わかりました。うちの園で受け入れます」と返事をしました。

こんなケースもあります。
全介助の4歳が愛知県から多摩に引っ越してきました。
多摩地区には養護学校があり福祉先進地区ということで選ぶ人が多いのです。
言葉を発することができないので、意思の疎通ははかれない。
何をすると喜ぶかはわかる。たてないが這いずり回ることはできる。
当時、私が副園長を務めていたかしのき保育園に入園し、無事に卒園しました。

昨年9月、その子の父親から電話がありました。
「20歳になりました。成人式を迎えます。成長した姿をみせたい」というのです。
驚いたのはこの後です。お父さんは「息子が挨拶したいといっています」というのです。
言葉を発することができない彼があいさつ?と思いました。

それは「指筆文字(ゆびふでもじ)」を使った会話でした。
父親が息子の指に手を添えて、父の掌に文字をかく。
それを父親がよむ。

翌月、両親が息子をつれて挨拶にきました。
発語はできない。嬉しいと不随意運動をする。
(不随意運動とは、本人の意思とは無関係に身体に異常な運動が起きることをいう)
指筆文字ができるようになったのは中学になってからだったそうです。
きっかけは外食でした。
父が「お外で食べよう、どこにいく?」と聞いた。
そっとボールペンをもたせてみたそうです。
手を添えたところ、文字らしきものをかいたのです。
もしかすると、あの店?とそれらしい店にいったら、どんぴしゃ。
うどんやでした。
固形食が食べられないので、うどんで、ミキサーをかけたものを食べるのです。
その瞬間、彼は言語を獲得していたことにご家族は気付いたのです。
お父さんはご家族の中でも一番遅く時間がかかったそうですが3ケ月かけて指筆文字の読み取りができるようになったそうです。

その彼は今、大学受験を目指しています。
そこにいたるまでは、いろんなことがありました。
「勉強したい」と養護学校の教諭にいっても対応してもらえなかったそうですが、大学付属の定時制に編入することができ、それからは物理の才能を発揮したのです。

渥美 感動的なお話ですね。
福島 日本の障害者教育はこの程度。相手の可能性を信じるのではなく、自分たちの経験則でやってしまう。彼のお母さんから「この子の将来、どうしたらいいのでしょう?」と相談されたときにこう言ったんです。「彼に能力と学習意欲があるなら、大学まで行かれたらどうですか。学びの中で健常者への説得にもなります。知的障害者への差別は根強い。内に言葉をもっている。差別行動をなくすことにつなげてほしい」と。
驚きでした。われわれの知らない世界で展開されていることの深さに感じ入りました。自分の狭さを突破してくれるエネルギーを彼は私にくれました。コロナが一段落したら、保育園の子どもたちに語って(指筆文字で)もらおうと思っています。
渥美 そのような環境で育った子どもたち。多摩市をいつまでも自分たちの「ふるさと」として大切にしているように感じます。最後にマイライフ協議会への思いを聞かせてください。
福島 マイライフ協議会は、高齢者の問題を視野に入れようと思い、立ち上げました。地域の課題を、地域でがんばっている法人や個人のみなさんとともに解決策を考え、行政とも力を合わせ取り組んできました。マイライフ協議会を通じて、素敵な人たちと出会ってきました。これからも一つひとつ具現化していきたいと思っています。